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医師兼漫画家 森皆ねじ子

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歩行者天国はもう復活しないのかな

秋葉原中央通りの交差点に、ジュースをもって手を合わせに行った。殺されたのは私だったかもしれない。あそこの交差点を通ったことのある人だったら、誰もがそう思っただろう。

私が無事だったのは、たまたまその時間は家でテレビ東京を見ていたから、ただそれだけにすぎない。日曜の昼は、視聴率が1%を切っても打ち切られる気配もなく絶賛放送中の ハロモニ@を見るのが私の日課だったから。ただそれだけだ。もしあの時あの交差点にいたら、私は職業使命感を元に、車に轢かれた人を助けようと道路へ飛び 出していただろう。そして、刺されていただろう。ひょっとしたら人命を助けたヒロインになっていたかもしれないが、それ以上に高い確率で、被害者になって いた予感がする。現場の映像を見ると(その手管から)通りがかりの医療関係者と思われる人たちが必死に救命処置をやっているのが見て取れた。犯人が近くに いるかもしれないパニック状態での救命活動は、私の想像するよりもずっとずっと凄惨であっただろう。心からの尊敬と敬意を表したい。

このニュースを初めて聞いた時に私の頭に浮かんだのは、池袋サンシャインで数年前に起きた無差別殺人事件だった。あれも通り魔で、池袋を選んだ理由は「そこが人が多いことを知っていたから」そして「東京で 行ったことがある、有名な街だったから」という程度のものだった。今回は、そうやって選ばれた街が秋葉原だったのだ。犯人はその前に渋谷を通っているにも かかわらず、秋葉原が選ばれた。秋葉原は有名になりすぎたのかもしれない。有名にさせられすぎた、と言うべきか。秋葉原自体は大して変わっていないのだ が、何者かに無駄に持ち上げられすぎたせいで、周囲の状況が変わってしまった。

「貧困や不公平感、孤独や疎外感に苦しむものは、歴史を変える戦いに参加することで、惨めな人生の一発逆転を図るのだ。これは右翼・左翼を問わず、 全てのテロリストの本当の動機である。」町山智浩さんが「映画の見方がわかる本」で言っていた。戦争が実感として感じられず、守りたいほどの熱い宗教観も (多くの人は)持っていない日本において、自分の鬱屈した思いをぶつけ、もっとも安易に自分の置かれている疎外感から一発逆転を図る(彼の言い方を借りれ ば「ワイドショー独占」するような、有名人になる)方法が、話題の街・アキバでの無差別殺人というテロだったわけだ。安易で馬鹿で迷惑な話である。こっち はどんなに疎外されても、孤独でも、変態性欲だの二次元コンプレックスだの言われても、ワーキングプアでも、毎日必死に「健全な社会人」の面の皮をかぶっ て細々と生きているというのに。マジで迷惑だ。犯人をオタクだと決めつける報道も一部に見受けられたが、あんなのを仲間とは絶対に認めない。むしろ敵であ る。そもそも本物のオタクなら、掲示板に三次元女性への執着など書くヒマがあったら「長門もみくるも俺の嫁ぇええええええええええええええええ」とか書い てるはずだと、個人的には思う。

社会人としてお金稼ぐのも、家事をするのも、生きていくのも大変だけど、アニメやらフィギュアやら人形やらハロプロやらジャンプやらテニミュやらを 見ている間だけは、世知辛い世の中のしがらみを忘れて、ひとときの夢の国に行ける。夢の国だってことも現実逃避だってことも、わかってる。だけどその瞬間 さえあれば、前向きに生きていける。月曜日から土曜日(人によっては金曜日)の戦場を生きのびる糧を手に入れるために、日曜日の買い出しに秋葉原へ来てい るんだよ、みんな。ねじ子はそう思ってる。さながらそれは、第二次世界大戦中、週に一度の配給日に遠い街の配給所まで電車にゆられて食料を取りに行く日本 国民のようなものだ。正直、テロリストの標的にされるような良い思いをしているとは、到底思えないのだけれど。まぁでもそんな道理を、殺人者に求めるだけ 無駄なんだろうな。道理が通じる人間なら、無差別殺人なんて選択肢には辿り着かないもの。

献花台は来る日も来る日も花でいっぱいだった。みんな、この街を、この街が内包する文化を、愛しているのだと思った。(2008.6.25)