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医師兼漫画家 森皆ねじ子

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しずむ…

我ながら非常に痛いということは自覚しているのだが、川上とも子さんが亡くなったことの衝撃から、いまだに抜けだせていない。神様は残酷で、奪わなくていい人を、理由もなく、時に若くして奪っていく。そんなこと知っている。そんなの何十人も何百人も見てきた。卵巣がんの予後の悪さもよくわかってる。それでも抜け出せない。しかも私のこの喪失感は、作中で最愛の登場人物が突然死んでしまった時と同じ手触りの感覚なのだ。

『少女革命ウテナ』はまだいい。天上ウテナはテレビアニメの最終回で一回死ぬ。だけど、「あの人は死んでなんかいない。貴方の世界からいなくなっただけ」という名言を残して、アンシーがウテナを探しに行ってくれる。そしてその後二人は必ずもう一度出会う。劇場版の『時に愛は』でも、そう歌っていた。

ファンタジーな世界観だから、どこかで二人が幸せに暮らしていることは容易に想像できる。だから天上ウテナに関しては大丈夫なんだ。だけど、進藤ヒカルがいなくなってしまうのは辛い。この日本に確かに存在していた進藤ヒカルという類い希な天才棋士が、41歳にして夭折したかのような感覚から抜け出せない。あー、痛い女だよ私は。笑ってくれよ。

『ヒカルの碁』が現実社会に根ざした生活感のある作品であること、出来事の年月日が細かく設定されていること(例えばヒカルとアキラの初めての対局が平成10年12月、佐為が消えたのは平成13年5月5日など)、それが自分自身の成長や思い出と重なってしまうこと、アニメもよくできていて声もイメージ通りだったことなどから、そう強く感じてしまうのだと思う。市ヶ谷駅の釣り堀の横を通るたびに、もう25歳になったはずのヒカルとアキラを、和也君と伊角さんを探しちゃうもん。街を歩いていて碁会所があるたびに「アキラくんいるかなぁ」と思っちゃうもん。いるわけないのにね。馬鹿だね。ほったゆみ先生の『ネームの日々』で「ヒカルそっくりの川上とも子さんがヒカルのアフレコしている」と書かれていたことも影響していると思う。ヒカルが41歳で夭折したら、置いていかれたアキラはどうなっちゃうんだよ。かわいそうすぎるだろ。残りの人生30年間、一人で神の一手を追い続けるのかよ。自分と違わぬ能力を持った唯一の碁敵である佐為を、一人夜中に誰もいない碁盤の前でずっと待ち続けた塔矢行洋パパのように、アキラも一人でヒカルを待ち続けるのかよ。生涯のライバルじゃなかったのかよ!!かわいそうすぎるだろ!!!そんなの、私が耐えられないよおおおおおおお!!!!(お前はいったい誰だ)

平野綾さんが女性向けTV番組『グータンヌーボー』で過去の恋人のことを語った時、ネット上でファンが暴徒と化していたことを、ねじ子はふと思い出す。正直、私にはまったく理解できなかった。「あれだけ可愛いんだから、彼氏くらいいて当たり前でしょ。ファンの皆さんは現実逃避しすぎだよ」と思っていた。議論の中で、「声優ファンは声優とキャラクターを同一視してる。声優が二次元と三次元を繋ぐ唯一の架け橋だと思っているんだ」という書き込みを見かけた。そんなもんかなぁ、と思った。「声優とキャラクターを同一視する」という感覚は、当時の私にはまったくわからなかったのだ。でも、今ならわかる。わかるよ!そうか、声ヲタのみんなは、平野綾さんという20代の美しい女性に彼氏がいた、という当然の事実を拒絶していたわけではないんだね。西宮市に住むトンチキな女子高校生だった「涼宮ハルヒ」という女の子が成長して、男性経験も積んで、それをテレビで話すような女性に変わってしまったような、そんなショックを受けていたんだね。平野綾さんではなく、涼宮ハルヒちゃんの未来に見えたんだね。それならわかるよ!それはちょっと気の毒だ。耐えられん。やはり我々は仲間だ。私も、自分で思っていた以上に、川上とも子=進藤ヒカルだったから。自分でもちょっとびっくりしちゃったよ。(2010/12/14)