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医師兼漫画家 森皆ねじ子

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COVID-19と岩田先生と東京の医者の私

こんな私でも、新型感染症が流行しているときは病院へ向かう足が重い。アフリカでエボラ出血熱が流行したときも同じ憂鬱を感じた。2014年である。今回はそれよりもずっと身にせまる危機である。憂鬱だ。間質性肺炎って苦しいんだよなぁ。あまりに憂鬱で、私はいよいよかばんの中に初美花ちゃんのぬいぐるみを入れて出勤するようになった。つかさ先輩のようである。彼女もきっと、命を危険に晒し続ける現場で働くプレッシャーをぬいぐるみで解消しているんだろう。私が感染症で死ぬのはしかたない。医者は患者から病気をもらって死ぬ。古今東西、そういうものだ。だから私が死ぬのは覚悟している。でも、子供にうつしたり家族にうつしたり友人や同僚にうつしたり患者さんにうつしたりすることは耐えられない。恐ろしい。足がすくむ。それでも私は病院へ行く。

医者が致死的な感染症にかかっている患者の前に立てるのはなぜか。それは「知識の鎧」を身にまとっているからである。「自分にはうつらないはずだ、それだけの準備と対策をしている」という確信が持てるから、我々は病原体に対峙することができる。科学的知識に基づき、その知識を実践するための医療資源が潤沢にあって(清潔な防護具、つまりガウンやマスクやフェイスシールドや手袋)それらを適切に使用できるならば、「自分の身は守られている」と信じることができる。それは「正しい医学知識」でできた物理的、かつ心理的な鎧である。科学的に正しいと確信できるだけの知識があるから、恐怖心をぐっと抑えられる。そうでなければ、自分を殺し家族にも危害を加えるかもしれない病原体の前にこの身を晒すことなどできない。名誉欲や使命感や高給だけでそんな無謀なことはできない。「私は、私自身のこの身体は、私が必死に勉強し信じてきた医学的知識によって確かに守られている!大丈夫だ!」と、他の誰でもない自分自身の脳で確信を持つしかない。それがなければ、病院に出勤することすらできなくなる。恐怖で逃げ出したくなってしまう。「インフルエンザウィルスはアルコールで無効化できる」という確信がなければインフルエンザ患者の診察はできない。「麻疹は予防接種で抗体がついていれば大丈夫。私には抗体がついている」という確信がなければ小児科や皮膚科の外来はできない。「院内感染となる耐性菌が出てもスタンダード・プリコーションを守っていれば大丈夫」と知っていなければ老人介護施設で働くことはできない。様々な病原体に対して毎日生身で立ち向かっていくための「勇気」は、「科学的で正確な知識」からしか得られないのだ。世界中の医者が今そうやって生命の根源的恐怖と戦っている。武漢で続々と亡くなくなっている医者に対して、他人事でいられる医者など世界中のどこにもいない。みな明日は我が身だと思っている。武漢で亡くなっている医療者はすべて私の未来だ。世界中の医療従事者がそう思っている。2003年にSARSを新型感染症と初めて認定したイタリア人医師カルロ・ウルバニ氏はSARSで死に、COVID-19を世界で最初に報告した李文亮医師もCOVID-19で死んだ。

自分の身を守る鎧は自分の医学的知識しかない。だから、その防具は他の誰でもない自分の力でメンテナンスしなければならない。戦国武将の侍の鎧や刀と同じである。他人に任せることはできない。自分の目で見て調べ、自分の脳神経回路で確信したことしか、医者は信じない。そういう意味で医者は非常に個人の独立性が強い。もちろん、知識が独善的にならないように私たちは絶えず医療者同士でディスカッションをする。この文章も、見知らぬ誰かへのディスカッションのつもりで書いている側面がある。2020年2月中旬、世界中の医者がダイヤモンド・プリンセス号の現状について自分で調べ、強い関心を寄せていた。もちろん私もそうであった。

私たち――船に乗っていない医者たち――は、ずっと「なぜダイヤモンド・プリンセス号の中でこんなに感染が拡大しているのか」と不思議に思っていた。もちろん、最初に疑うのは「それだけ感染力が強い」新種のウィルスである可能性だ。未知の新しいウィルスなんだからその可能性も十分ある。感染症対策の初歩である標準予防策(スタンダード・プレコーション)が行われても感染してしまうウィルスならば、正直に言うと、打つ手が限られてくる。患者さんから医療者への感染や院内感染を確実に防ぐことが非常に難しくなる。その次元の感染力である可能性を、みなが考えていた。そうすると、医療者の次の目標は「世界中に広まっていく速度をできるだけゆっくりにしていくこと」になってしまう。その間に特効薬やワクチンを即急に作る努力を重ねる。そもそも、2003年のSARSコロナウィルスの流行から17年たっているのにいまだワクチンも治療法も確立できていないのだから、コロナウィルスってのは変異が早い厄介なウィルスなのだ。グローバル社会におけるウィルス感染の広がりの速さに追いつくことができるだろうか?医療の打つ手よりもウィルスの広がりの方が早い場合は、「人類全員が感染したあとに生き残った人類で新たな歴史を作っていく」帰結になってしまう。実際そうなってきた歴史は、ある。スペイン風邪もそうだったし、新型インフルエンザのときもそうであった。ニホンオオカミはおそらく明治時代の開国で輸入された狂犬病ウィルスとジステンパーウィルスによって絶滅した。

つまり私たち医者はみな「感染症のスタンダードな対策であるスタンダード・プレコーションまたはそれ以上の対策がダイアモンド・プリンセス号では行われている」と思っていたのだ。だってスタンダードだし。そこらへんの民間病院で院内感染の対策が必要な感染症が出ちゃった場合にも、ごく普通に日常的にやってることだし。まさか今の日本で、世界中が注目している新型感染症に対して、スタンダード・プレコーションをやっていないはずはないでしょ!!!!そう思っていた。のんきにも信じ込んでいた、と言ってもいい。

しかし実際は違った。実際はスタンダード・プレコーションどころか、それ以前の「レッドゾーンとグリーンゾーンのすみ分け」すら行われていなかった。愕然とする事実である。それを私は岩田先生の動画で初めて知った。私の率直な感想は「なーんだ、そうか!それじゃあウィルスが感染拡大するのは当たり前だ!」であった。「スタンダード・プレコーションが行われているのに院内感染を防げない」「スタンダード・プレコーションが行われているのに3500人中600人超が感染した」という、非常に強い拡散力に私はおののいていたのだ。その認識はずれていた。「スタンダード・プレコーションどころか不潔と清潔の区別すらやってない環境でウィルスが拡散した」これは至極当然の話である。医学的には当たり前の事実が衆目にさらされただけだった。科学的には朗報、とさえ言える。だって「ダイアモンド・プリンセス号での拡散はCOVID-19のあまりに高い感染力を証明している」わけではなかったのだから。COVID-19の感染力の評価は私の中でいったん保留となった。

もちろん疫学という学問において、この一件は歴史に残る大失態である。14日間以上もの間、日本政府に言われたことを信じて脱走もせず暴動も起こさず船に閉じこもってくださった皆さんの苦労がこれでは浮かばれない。ダイアモンド・プリンセス号の名が公衆衛生と感染症学の教科書に永遠に残ることはすでに決定している。この後長期にわたって、世界中から様々な言語で様々な論文が書かれる。乗客全員の身元が確定し保証されている(社会的地位の高い人が多い)ゆえに追跡調査が非常にしやすいこと、世界各国の乗客から取れる確かな証言(つまり世界中の国と言語で論文が書ける)、時々刻々とアップされた船内写真の多さ(どれも隔離が全く実施できていないことの十分な証拠写真となっている)、どれも疫学的研究にふさわしい。世界中の医学論文で検証され続けることはもう決まっている。きらびやかな外見とキャッチーな名称は、その知名度にさらなる拍車をかけるだろう。

※ 参考例:2003年のSARSコロナウィルス拡散の疫学調査。香港のホテルに宿泊した中国本土の内科教授(その後SARSによって死亡)が、たった一晩の宿泊で周囲の部屋に広めたエリアの図。ダイヤモンド・プリンセス号においてもこのような検証が今後世界中で行われていくであろう。

 

船の状況は岩田先生が動画を発表したからこそわかった事実である。そう、事実。科学的事実だ。サイエンスである。船内にいる乗客がアップしている写真や、船内にいるアメリカ人医師の証言からも先生の言っていることが科学的に事実であり真摯な内容であることは一瞬にして十分に確認された。岩田先生の行動の揚げ足を取ることは非常にたやすい。先生もそんな事はわかりきっていただろう。それでも、先生は科学的正しさと、患者さん(この場合は船中の人たち)の健康と生命を優先した。そして正しい見識を最も早い方法で世界に広げた。ウィルスは待ってくれない。「船の中はレッドゾーンとグリーンゾーンのすみ分けすらやっていない」「だからウィルスが拡散した」「きょう船から降り世界中に帰国する人たちはウィルスを保有している可能性が大いにある」という科学的にゆるぎのない事実を世界中の医者に届けた。これは何よりも公衆衛生的に重要なことである。科学的で正確な情報を迅速に流すことが、感染症対策において最も重要だ。一番ダメなのは隠蔽すること。これはかえって感染を広げる。

岩田先生は感染を広げないこと、そして何よりも、船内の人たちの生命と健康を第一に考えている。私たちの敵はウィルスである。人間でも官僚組織でも政治スタンスでもない。国籍でもオリンピック開催でも船に乗るための手続きでもない。それらで争うことは、サイエンスの徒である我々医療者にとってすべて意味のない場外乱闘である。彼らの舌戦は私のやっている野球とは何の関係もない。それよりも、岩田先生が正確で迅速でプリミティブな情報を流すことができなくなったら、それは非常に困る。世界中の医者が困るんだよ!我々のウィルスとの一対一戦争の邪魔をするのはやめてくれ!!!

私は、これだけ国際的に信用が落ちた日本という国の公衆衛生の評価を上げるための唯一の方法は、「今からでも遅くないから三顧の礼で岩田先生をダイヤモンド・プリンセス号に招き入れ、感染症対策の最高責任者にする」ことだとさえ思っている。まあ、ないだろうけど。

私は研修医の頃から岩田先生の本で感染症を勉強している。岩田先生は日本一の感染症の専門家だと、私はずっと思っている。ダイヤモンド・プリンセス号の動画をもって、先生は世界一の感染症の専門家になった。たとえ先生が現職を追われることになったとしても、世界中の大学が感染症学の教授の席を用意して岩田先生を招聘するであろう。私はそれを確信している。

だって先生は現場で働く世界中の医者全員の脳に「正しい知識」を配ってくれたのだ。ダイヤモンド・プリンセスは汚染ゾーンの隔離すらしていないと。スタンダードな感染対策どころかその何十歩も手前の状態であったと。そして、そこで暮らしていた人たちがあなたの国の空港に帰ってくる、と。その知識を持っているか否かで、各国の医師の取る対策はまるで違う。おそらく彼らのうちの幾分かがウィルスを持ち帰る。そういう目で管理しなくてはならない。ダイヤモンド・プリンセス号帰りの人が「一般人よりも多くの審査をかいくぐった、感染の可能性がより低い人間」になるか「最低でも2週間の隔離が必要な人」になるか。これはぜんぜん違うのだ。岩田先生には、あの日あの時(船からの下船が始まる直前)に世界中に科学的に正しい知識を早急に配る必要があったのだ。

私たちは毎日生身を晒して、ウィルスという「敵」と戦っている。ウィルスだって私だって命がけだ。殺すか殺されるかの勝負である。私は日本に住む日本の医者として、岩田先生を称賛する記事を挙げなければならない。本当はルパンレンジャーVSパトレンジャーの新しい映画でどれだけ初美花ちゃんが美しく成長していたかについて書きたくてたまらないのだが、その時間はなくなった。いつか必ず書く。書いてやる。

感染症において岩田先生の行う行動であるならば間違いなく医学的にも科学的にも正しく、患者さんのためになるという確信を、他でもない私自身が持っていたからこそ、私は瞬時に動画を信じることができた。それは私が先生の感染症の教科書を研修医の頃からずっと読み、今回の新型コロナウィルス感染においても先生のブログを随時読んでいたからである。書籍にはそういう力がある。私は岩田先生のことを知らないし、先生も私のことを知らないけれど、岩田先生は研修医の頃からずっと私の感染症の「先生」だ。感染症において岩田先生と自分の意見がくい違うのならば、私は自分の意見など瞬時に投げ捨てて先生の意見を採用する。だって、先生の方が感染症については圧倒的に詳しいから。それが「専門」である。感染症に関して岩田先生にコンサルトできるなんて、有り難くて涙が出るレベルなのだ。厚生労働省がなぜそうでなかったのか、私にはわからない。

というわけで、私は私自身を守るために「知識の鎧」を毎日、自分の手で作りあげる必要がある。COVID-19の国内感染状況と、各自治体の打ち出す対策と、中国からの最新論文と、同じコロナウィルスであるSARSの過去の動勢について勉強しなければならない。状況は刻一刻と変わる。水際対策は失敗した。日本における新型コロナウィルスはもう市中感染症として対策しなくてはいけない。それは東大も日本環境感染症学会も同じ見解である。私もそう思う(それはそれとして水際対策としてのダイヤモンド・プリンセス号の環境改善と評価はきちんと必要である)。

※日本感染症学会と日本環境感染学会の出したPDF。

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)―水際対策から感染蔓延期に向けて―(2020 年2 月21 日現在)

すでに感染蔓延期。その通りだと思う。偽陰性(本当は感染しているのに、検査で+が出にくい)が多いことはCOVID-19の管理を非常に困難にしている。結果が陰性でも感染してないという確定ができない。

※当時のSARSの記事。

COVID-19は当時のSARSコロナウィルスよりも潜伏期間が長く、致死率が少ない印象。同じコロナウィルスだけあって臨床症状はよく似ている。SARSコロナウィルスの主な死因はARDS。感染者の中からARDSになる人と軽症ですむ人、その分岐点はどこにあるのだろう?当時も不明であり、現在のCOVID-19でも不明だ。どうして子供と女性はARDSに(比較的)なりにくいのだろう?どうして高齢者ほどARDSになるの?そして、どうしてSARSの院内感染率は高かったのだろう?人工呼吸器管理時のエアロゾルなのか?

とりあえず2020年2月18日現在、検査はPCRしかなく、そのPCRも保健所を通じてお伺いを立て、保健所のOKが出た症例しか検査できない状態であるのはなんとかしてほしい。そもそも「新型コロナウィルス疑い患者の要件」※※が、市中感染フェーズに移行した東京の現状に追いついていない。病院が病院だけの判断で迅速に直接の検査ができるようにしないと、もう間に合わないと私は感じている。

※※ 現状の「新型コロナウィルス疑い患者の要件」

「新型コロナウイルス感染症の疑い患者の定義」
次のいずれかに該当し、かつ、他の感染症又は他の病因によることが明らかでなく、新型コロナウイルス感染症を疑う場合。ただし、必ずしも次の要件に限定されるものではない。
1)発熱または呼吸器症状(軽症の場合を含む。)を呈するものであって、新型コロナウイルス感染症であることが確定したものと濃厚接触歴があるもの
2)37.5℃以上の発熱かつ呼吸器症状を有し、発症前14日以内に中国湖北省に渡航又は居住していたもの
3)37.5℃以上の発熱かつ呼吸器症状を有し、発症前14日以内に中国湖北省に渡航又は居住していたものと濃厚接触歴があるもの
4)発熱、呼吸器症状その他感染症を疑わせるような症状のうち、医師が一般に認められている医学的知見に基づき、集中治療その他これに準ずるものが必要であり、かつ、直ちに特定の感染症と診断することができないと判断し(感染症法第14条第1項に規定する厚生労働省令で定める疑似症に相当)、新型コロナウイルス感染症の鑑別を要したもの

鳥取県のサイトより

まず「COVID-19疑い患者」になるためにこの4つの厳しい「疑い要件」が必要である。これがないと一般診療に回されてしまう。検査の「依頼」すら出しにくい。さらに「診察した上で保健所へ報告し」「保健所と自治体がOKを出した例にしか」PCRができない。これではあまりに遅い(そもそも中国全土じゃなく2省だけっていうのも疑問符がつくのだが)。明日以降、熱発の肺炎患者でインフルでもマイコでもないってときいったいどうすればいいんだ?臨床症状だけから検査なしで診断するのは御法度でしょ?個室入院で様子見なのか?肺炎になってなければ家庭隔離?

※2月23日、近いうちに各病院でもPCRできるようになるというニュースあり。よかった。試薬はよ!

※実は2月17日に厚労省のお達しがPDFで出ていて(これはよくない周知のやり方。必要な情報までたどり着きにくい)「発熱かつ呼吸器症状かつ入院を要する肺炎が疑われたとき」「医師が総合的に判断した結果、新型コロナウィルス感染症を疑うとき」も検査対象者になっていたらしい。うーん、これは保健所によって対応にばらつきが出ているな?

もう我々は、冬に外来に来る熱発患者は全員インフルエンザにかかっているものとして対策していたのと同じように、外来に来る感冒症状の発熱患者全員がコロナウィルスを保有していてもおかしくないと「仮定して」対応しなくてはならない。それは何よりもまず私自身が伝染らないために。気が重い。防護具が潤沢な環境ばかりでもないからなぁ。古来より、医療従事者は患者から病気をもらい、流行病で死ぬ。感染症のリスクが高いからこそ、医療従事者には高い賃金と社会的地位が保証されていると言っても過言ではない。わかってる。医者は患者から病気をもらって死ぬ。わかってる。ああ、でも。気が重い。私は今日も初美花ちゃんのぬいぐるみをそっとかばんに忍ばせて病院に向かう。これで勇気が足りなくなったら次はヒーリングっどプリキュア・キュアタッチ変身ヒーリングステッキを買おう。そうだ、今季のプリキュアは医者だ。しかも脚本は香村さんだ。しかも敵はナノビョーゲンだ。ナノサイズの病原体といえばウィルスである。プリキュア全員女医というコンセプトはおそらく医学部受験女子差別問題に対して東映が出した明瞭で力強い回答だと私は思っていたのだが、まさか病原体と戦う設定がここまでタイムリーな議題になってしまうとは制作陣も予想してなかっただろう。キラメイピンクも医者である。これはもう、私がプリキュアになった、私が戦隊メンバーになったと言っていいのではないか!?そうだ。きっとそうに違いない。(2020/02/24時点の私見。現状は刻々と変わります)